2013年9月の思い出になります。
カメラはニコンD700です。レンズは AF-S NIKKOR28-300mm F3.5-5.6G です。
朝!キャンプ場を撤収
朝6時に起床でした。ちょっと、寒い感じでしたね。
テントを畳んで、撤収後、朝7時、朝ご飯を食べるためにコンビニに寄り、サンドイッチ、おにぎりを買って食べました。
黒田官兵衛 の居城 中津城を見に行く
いきなり、青の洞門ではなく、「中津城」を見るために、中津市内へと走りました。
「黒田官兵衛が築城し、細川忠興が完成させた。江戸時代は奥平家が居城にしていた。」と出ております。私の浅い知識でした。
小さい城です。バカにしているわけではありません。
「堀には海水が引き込まれているため、水城(海城)ともされ、今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられる。」なるほど、海が近いです。
時代が変わり、国の中心に位置する場所で平地、いざ戦の時のための堀を作りやすい河口、当時は船で交易を盛んにして富を得る、など色々な要素が絡んで作られたのでしょう。「黒田官兵衛が築城した」と言うだけでも、一見の価値があると思います。 朝早かったので、中には入れませんし、外から眺めるだけで満足でした。
織田信長が本能寺にて死んだ折、泣き崩れる秀吉に「ご武運がひらけましたな、天下お取りなさいませ」と直言し、秀吉をはっと我に返させた。これが原因で秀吉の恐れられ、遠ざけられてしまうという皮肉な結果になってしまう。
天下人になった豊臣秀吉、「次の天下人は誰か?」と重臣たちにに聞くと、「徳川殿、前田利家、上杉景勝 」と名だたる武将の名が上がるが、秀吉は「あのかあさ頭よ(官兵衛のこと)」と言ったそうです。
( かさ頭とは、官兵衛が有岡城 に乗り込み、秀吉に付くように説得に行くも捕らえられ、狭い牢獄に1年間も閉じ込められたため、ダニ、シラミのせいで皮膚病になり、毛が抜け落ち皮膚がボロボロ、オマケに足が不自由になる。容貌が変わったのです。)
関ヶ原の戦も予想していたのでしょうね。急いで九州を平定に動きました。でも、予想外の速さで、半日で東軍の勝利と決着がついてしまう。時は官兵衛には味方してくれなかったですね。しかも、関ヶ原の戦で息子 黒田長政が武功を立てるという皮肉が付いてきたから、歴史は面白いです。
息子・黒田長政が「家康公はわたくしの手を取って功績をたたえてくれました。」と「関ヶ原の戦い」での働きを報告すると、官兵衛は「家康公が取った手はどちらの手だ。」訊ね、「右の手です。」と答えると、官兵衛は「その時そのほうの左手はなにをしていた。」と言ったそうです。なぜ徳川家康を左手で殺さなかったのかという、父の本心を知った黒田長政は絶句したといいます。
知略、謀略、辛抱強さ、抜け目なさ、等々戦国武将として、とっても注目を集める人です。又、私は黒田官兵衛の甲冑も他の武将とは違うのが好きですね。
他の武将の甲冑は、大きく見せる、強そうに見せる、など、それ相応の武将の強さを示すような形をいています。
黒田官兵衛 の甲冑は、お椀を逆さにしたような形が特徴 です 。
つい、好きな戦国武将「黒田如水」でしたので、ついつい、浅い知識で申し訳ないですが、色々書いてしまいました。
今日は、以上です(^_-)-☆。続きは又、 明日です。
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